Critical thinking – JUiCANDSEA

平昌の風は風力発電機がある程に強い。

冬季オリンピックの開催地、平昌は風が強いことで有名で、
巨大な風力発電機がいくつも並んでいる。
しかしながらそういう場所で
気候条件に左右されるべきでない競技が
おこなわれているのかよくかわからないが
風力発電について気になる点がある。
風力発電はそこそこの風が必要で、
その風力が逆に強すぎると羽がおれる。
羽はあまり頑丈にはできていない。
つまり羽が壊れるほどには平昌は風が強いところではないということである。
風力発電機があるということはそういうことになる。
風を扱うプロの選手はそれくらいは織込み済ということか。

大和川の決壊と報道

2017年の衆議院総選挙が終わった。
開票日のこの同じ日に台風が大阪を襲い、
大和川は一部決壊した。
堺市の浅香駅は改札の定期投入口まで水位が上昇し
私の実家は大和川の近くなので避難勧告がでた。
実家近くのスーパーで夕食の買い物中、
スマホがけたたましく何度もなり、注意を呼びかけてきた。
近所の世話係の人が夜分、
避難の準備をしておいてくださいと
避難場所の説明もかねてお声がけをしにきてくれた。
ありがたいことである。
テレビでは大雑把な報道しかとうとうされなかった。
決壊の写真も文字もなかった。
市のサイトは途中で情報が止まってる。
大和川の水位の様子は
大和川についているライブカメラとツィッターの実況報告で確認する。
ついぞマスコミもジャーナリストも少しも動かず、
ただただネットの善意に助けられた日曜日だった。
肌で感じた報道の姿がこれ。
速報はネットで十分。
深堀は文献で十分。
テレビ、新聞は情報収集と日常生活には
あまりもう必要のない存在になりさがったようだ。
これは以前から感じていたことなのだがさらに実感した。
SNSが機能してネットがつながっている環境が
できている今、情報を専門にあつめるひとは
もっと専門性をもっていただかないと
役に立たない。
速報性はもうSNSで十分である。
むしろ記者の余計な見解、
思いこみ主導のイデオロギーまみれの記事は邪魔なだけである。
事実と見解をまぜこぜにしている記事がいかに多いかを
新聞をみるといつも感じる。
ITに関しても間違いだらけの記事ばかりで
情報になっていない。むしろノイズだ。
テレビも同じく、いっちょかみの余計な見解が多くみられる。
テレビはやはり娯楽に徹していただいて
本来の姿に戻るのが一番ではないか。
ジャーナリストはSNSに勝てない分野はやめていただき
素人ではできない探求に徹するか、
それができないジャーナリストは
もういいんじゃないか。そういう時代がきてしまったんだ。

ものをくれる友はありがたい友だ

かなり昔、20年以上前、まだ高校生くらいのときに保守派の論客、
会田雄次氏のエッセイを読んで記憶に残ったものがある。
たしか「ものくるる友」みたいなタイトルだったかとおもう。
どういう話かというとなんでもない、
ものをくれる友はありがたい友だという、そんな話。
なぜ記憶に残ったのかとよくわからないが、言葉ではなくモノというダイレクトさ、
げんきんさ、そこにひかれたのかもしれない。
最近の啓蒙書に「まず与えよ、そうすれば与えられる」ということがよく書いてある。
まるで真理のように。
成功した人が書いているのでたぶん成功という観点からは真理だとおもう。
言葉、この場合はいい言葉はもちろん与える方がいいに決まっているが、
言葉は言葉なのでお腹がすいていたり仕事が欲しい人には
言葉の力には限界がある。
当然、ないよりある方がいいが、機能的限界がある。
機会をあたえる、というのも確かにモノを与えるくらいにありがたいことだ。
与えられる人が元気であれば。
返報性というのは人にも動物にもあるので、
与えられた貸しを受けたままというのは気持ちが悪くて必ず返そうとする。
言葉は言葉で返す。
人はいつ何時ピンチにおちいるかわからない。
そのピンチのときに言葉をかけられることでピンチを脱せれればまだまだ元気はある。全然大丈夫なレベルだ。
でも元気がないときもある。
そんなに自分は強くない。自分が強いかどうか、そういう賭けは私はしたくない。
少しでも自分に余裕があるときはまずモノをあげるようにする。
一種の信託である。
自分へのご褒美も大事だが、
自分がピンチの時に自分が自分がを助けてくれる自信はない。
自分へのご褒美をあげる余裕があるのなら優先して他人にご褒美をあげよう。
普段から周りへの心付けをしておこう。
これが情けは人のためならず、だ。
朝ドラのごちそうさん精神である。
ピンチのときに元気でいられる自信がない人は言葉ではなく、モノ。
人はいつでもピンチになれるから。

ハピネスの変遷

人は幸福になりたいからモノを買うといわれている。
商品をつくったり売ったりする側は
その幸福(ハピネス)がいまどうなっているのかが一番知りたいところである。
かつて幸福は消費を通して得ていた。
車、クーラー、テレビ、そういう家電などが家庭に入ることで
モノを通して家族間のコミュニケーションを取り、幸せを感じたものだ。
それがやがて
「消費は幸福を支えるにたりない時代」となり、
いまは「幸福だから消費する時代へ」(『幸福の方程式』山田 昌弘 ディスカヴァー携書
とかわってきた。
もう少し詳しく説明すると

  • 戦後は基本的欲求  とにかく食べれればいいという時代。
  • 1950年代は雷同   付和雷同。自分もテレビが欲しい、という価値観。
  • 1960年代は優越   隣のクルマが小さく見えます(サニー)というコピーの通り、高度経済成長の時代らしい見栄。
  • 1970年代は差別化  モーレツからビューティフルへ(ゼロックス)というコピーの通り、他人と違う物ものを手に入れたいという価値観。
  • 1980年代は主観化  くうねるあそぶ(セフィーロ)にみられるように自分らしい暮らし、価値観がメインに。
  • 1990年代は適正   いわゆる身の丈にあった暮らし。

が価値観の基本だそうだ(『シンプルマーケティング』森行生  SHOEISHA)。
そしていまは幸福だから消費する時代、
つまり幸福感を与えてからでないと
消費に人は向かわないということである。
まず幸福にする。
幸福を持続させるには消費(ご購入)をしていただく、という仕組みをどうつくるかということだ。
つながる、というのがキーワードになる。
LINEのスタンプなどは直接自分のために買うのではない、
特定の人とつながりたいから、相手の反応をひきだしたいから買う類の消費だ。
まず与えるということ、がこれからの消費であり、ハピネスのとっかかりである。
参考文献 『幸福の方程式』山田 昌弘 ディスカヴァー携書
『シンプルマーケティング』森行生  SHOEISHA

386万のチーム

日本には企業が、大企業、中小企業、個人事業主を合わせて386万社あるといわれている。
1億3千万の人が386万のチームに別れているということだ。
「法人」に該当するものが188万、「個人経営(個人事業主)」が198万と、およそ半々となっている。
企業のほとんどは中小・零細企業になるが、日本はよく中小企業が多い国だといわれて効率がよくないようにいわれるが、統計でみると事実ではない。
2017年の人口100万人当たりの中小企業数を表したグラフを見るとOECD33か国中31番目の水準で、むしろ中小零細企業はすくなく、決して非効率な国にははいっていない。
ちなみに一番中小企業が多いのはチェコで2位がスロバキア、3位がポルトガルである。
最新のデータは確認できていないが、これが大きく変わるとはおもえない。

ファクトで考えないと間違った先入観で構想をたててしまうので注意が必要だ。
景気がうまくいっていないのは非効率ではなく、別の所にあると考えた方がいいようにおもう。

平和条項をもっているのは124カ国

世界の現行憲法の中で何らかの平和条項をもっている国は124カ国にものぼるそうです。
駒澤大学教授、西 修氏によると
国際紛争を解決する手段としての戦争放棄をうたっているのでさえ
アゼルバイジャン、エクアドル、ハンガリー、イタリア、日本の5カ国にもおよぶそうです。
日本が唯一戦争放棄をうたっているわけではないということです。
(『日本国憲法を考える』西修 文春新書)
photo by: MojoBaer

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